17世紀の後半から18世紀は、茶の湯の遊芸化の時代といえるでしょう。ことに元禄文化の時代から都市文化が発達し、さまざまな芸能を「遊芸」として愛好する人たちが増大しました。井原西鶴の文学作品にも、町人が遊芸に親しむ話がしばしば見えますが、なかでも遊芸によって身を滅ぼしてしまった話などはよく知られるところです。遊芸とは遊びとして楽しむ芸能を意味しますが、武家町人を問わず、江戸時代の上層階層が互いにおつきあいをするうえで必要な教養でもあったのです。
茶の湯も遊芸の一つとして楽しまれるようになります。こうした茶の湯人口の増大により、茶の湯を教授するプロフェッショナルな師匠とたくさんの素人の弟子があらわれ、家元制度が完成されます。
18世紀中期には、七事式という集団でおこなう新しい稽古法が表千家7代の如心斎宗左を中心に考案され、ますます茶の湯が人気を得ました。さらに、19世紀には都市ばかりでなく、農村地域にも茶の湯はひろがりました。
