利休の茶の湯とその流れ
「千利休」の名は茶の湯のみならず、日本の歴史上においても重要な人物として知られます。堺に生まれ、幼少の頃より茶を学んだ利休は、やがて天下に名の知れた茶人として、織田信長豊臣秀吉といった当時の最高権力者の茶堂となります。桃山文化の中核として、また秀吉の側近として政治的な役割をも担った利休は、日本文化における茶の湯の位置づけにおいて大きな影響を及ぼしたのです。
利休については、これまでにも多くの人々によって、その茶の湯が語られてきました。利休の高弟、山上宗二の記した『山上宗二記』や、利休100年忌の元禄3年(1690)に成立したとされる『南方録』は、利休の茶の湯にふれた初期の史料として知られています。また昭和15年(1940)の利休350年忌と相前後して、さまざまな利休に関する研究が著されました。さらに近年では平成2年(1990)の利休400年忌の際に、京都国立博物館において大規模な「千利休展」が催され、同時に熊井啓、勅使河原宏両監督によって、利休の映画も競作されるなど、茶の湯の世界以外からも利休に対する興味は高まりを見せています。
利休の時代から400年、こんにちの茶の湯の流れは、その多くが利休に源を発しているともいえるでしょう。また同時に、現在、茶の湯が日本の代表的な文化の一つとしてあげられ、人々に受け入れられているのは、利休が大成した茶の湯を、その後世の人たちがいかにして継承してきたかということも重要な要素となります。ここでは「千利休」個人にスポットを当て、その生涯と茶の湯を、そしてその茶の湯がこんにちまでどのように受け継がれてきたのか、表千家の歴代の家元を中心にみていきましょう。

 

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桃山文化 ももやまぶんか
16世紀、織田信長、豊臣秀吉が天下を統一した安土桃山時代の文化をいう。利休のわび茶もその一つである。
Japanese Tea Culture
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