私は若い頃、即中斎宗匠や裏千家の井口海仙宗匠をお客様にお茶会で亭主をさせていただいたことがあります。大汗をかきながら務めさせていただいたことを思い出します。
その時は、能の曲「半蔀(はじとみ)」にちなんで瓢箪の形や柄の道具を集めたりと精一杯の趣向を凝らしたつもりだったのですが、即中斎宗匠が私におっしゃったのは「お茶はどんな道具ででも、どんな場所ででもできる」ということでした。茶道には「守破離(しゅはり)」という表現がありますが(能では「序破急(じょはきゅう)」という概念になります)、まさにそのお言葉は「離」を越えられた方々のお話であって、経験の浅い私には難しいことでした。習い始めの頃は、お点前の手順を覚えるのに精一杯だったのが、いつの頃からかお点前の流れは合理的な形を選んでいることに気が付きました。一連の動作はそこに落ち着くのが当然なのだということがすぐには理解できなかったのです。能の仕舞でもそれは同じことです。ただ、年齢をとると、一曲を演じるにあたり、当初心づもりをしていた型が稽古をする程に少なくなってまいります。必要がない、と思ってしまうのです。能は立っただけで、或いは一手を出しただけで、強さも優しさも柔らかさも表現できなければ駄目だと思っております。
私は今年(平成19年)喜寿を迎えますが、世阿弥が『花鏡』に記しているように、能の道に果てが無い以上、その時々の初心で臨みまだまだ精進をしていく所存です。そして、少し疲れたらお茶で一服したいと思います。
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