一休禅師はこの地で示寂され、墓所もこの境内にあるのですが、境内地に虎丘庵という庵を結ばれ晩年を過ごされました。この庵、もとは京都の東山にあった一休禅師の拠点の一つでありましたが、応仁の乱がおこった際にこちらに移築をされたものであります。当時、この虎丘庵には様々な文化人が一休禅師を慕い集いました。つまり当時の文化サロンの役割を果たしていたのです。この虎丘庵での交流が現代に伝わる伝統文化を生むことになりそしてここはその発信の拠点となりました。代表的文化人に能楽の金春禅竹(こんぱるぜんちく)や絵師である曽我蛇足(そがだそく)、などなど数多くの文化人がおりますが最も知られるのは「わび茶の祖」である村田珠光(むらたじゅこう)であります。
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