天正19年(1591)2月28日に利休が自刃したあと、少庵は会津の蒲生氏郷のもとに預けられていましたが、秀吉の許しが出たので京都に帰ってくるよう少庵に告げられたのがこの召出状です。確かな年代はわかりませんが、文禄3年(1594)と推定されています。
秀吉の許しを得た少庵は京都に戻り、大徳寺の三玄院で修行をしていた息子の
元伯宗旦
とともに、現在の表千家がある本法寺前に千家を再興しました。少庵と宗旦には、秀吉から長持(ながもち)三棹分の利休の道具が返却されたといいます。
蒲生氏郷は秀吉の天下統一に重きをなした戦国大名で、この時、会津92万石の城主でした。しかも、『逢源斎書』(ほうげんさいしょ)に、氏郷は利休のすぐれた七人の武将の弟子、いわゆる「
利休七哲」の筆頭としてあげられています。
また同書には、「利休が秀吉から自刃を命じられた時、氏郷は会津にいた。もし京都にいたら、秀吉に利休を許してもらえるよう申されたことである」と記されています。