茶の湯の根本は「さび」であるといい、
「わび」ではなく「さび」としているのが注目すべき点です。「さび」ということばは、江岑の父、元伯宗旦が手紙のなかで用いており、宗旦の茶の湯の理念でした。
宗旦は、「さび」が具体的にどういうことであるかを示してはいません。しかし、宗旦は「そさう」(「そそう」で「麁相」、「粗相」)ということばも使っていて、それは粗末、質素、簡素という意味で、派手さや飾り気のない自然な状態をいいます。したがって、「さび」は「麁相」という概念を含み込んでいると考えられます。
江岑は先の文章に続けて、「さび」はとても大切なことだが、そのような茶の湯をしようとすれば、たいてい「へち」のように作為的になってしまうと言っています。「へち」とは「丿貫(へちかん)」という安土桃山時代の茶人で、常に手取り釜一つで飯の煮炊きから茶を点てる湯までわかしたといいます。天正15年(1587)、豊臣秀吉がおこなった北野大茶の湯において、丿貫は朱塗の大きな傘を立て、野立ての趣向で茶の湯をして人びとを驚かせたと伝えられています。