世界の喫茶文化

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千利休『逢源斎書』より

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千宗旦「元伯宗旦文書」より

千宗旦「茶杓絵讃」より

江岑宗左「江岑宗左茶書」より

千少庵
   「少庵の事績 京都と会津」

随流斎『随流斎延紙ノ書』より

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随流斎 「随流斎延紙ノ書」より その11
去人、宗左ニ咄候
【大意】
さる人が、江岑宗左に話しました。

ある人が江岑宗左に語った「咄」として、随流斎は『随流斎寛文八年本』に次のような咄を書きとめています。

瀬田掃部(かもん)のところへ宗易(利休居士)が茶の湯に参り、相伴は細川三斎であった。朝の茶の湯であったため、利休居士と三斎は朝早くに参上したが、亭主の掃部は寝過ごしてしまい、寝起きのさばけた髪のまま出てきて、「ご迷惑をおかけしますが、お帰りください。これより茶の湯はやめることにします」と言い、それ以後、茶の湯をやめてしまったとのことである。

瀬田掃部(?〜1595)は、江岑宗左が『江岑夏書』のなかで利休の「弟子衆七人衆」いわゆる「利休七哲」の一人にあげている武将です。 名は正忠、伊繁(これしげ)といい、豊臣秀吉に仕え、近江国(現在の滋賀県)瀬田に所領を与えられていました。茶の湯に深く親しみ、ことに掃部作の茶杓は現在も多く伝わっています。


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