後にこの隠居所を末子である仙叟宗室(せんそうそうしつ)に継がせるのが、裏千家の始まりとなった。住まいする場所から表さん、お裏さんと呼ばれ、後に表千家、裏千家という固有の名称となる。
また日常生活の利便を考え、隠居場の出入り口を西側とした。そこで江岑の住まいも西側に門を構え、現在の形になったという。
時は巡り、九代了々斎48才の文政5年(1822)4月13日、紀州藩主徳川治宝(とくがわはるとみ)侯の御成を得て、不審菴にてお茶を差し上げることがあった。一千人を超す供を従え、京に入られた一位様(治宝侯)をお迎えするということで、久田、堀内家の当主、住山揚甫などの高弟、また楽旦入や大西浄雪などの職家が家元に詰めて、お迎えの準備に当たった。
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