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利休の茶の湯の弟子のうちでも、その名をよく知られるのが、「利休七哲」と称される人たちです。7人の顔ぶれについてはさまざまな説がありますが、細川忠興(三斎)、古田織部、高山南坊織田有楽蒲生氏郷といった武将たちで、その後、江戸時代初頭に隆盛をむかえる武家の茶の湯にも大きな影響を与えました。 その一方で、利休の茶の湯は子孫にその道統が伝えられ、現在の茶道の礎を築くことになります。利休には眠翁道安、少庵宗淳(1546-1614)の2人の息子がいました。眠翁道安は利休の先妻の子として生まれます。茶の湯の作為、手法において利休も一目置くほどの茶人であったとされています。秀吉の茶堂としても仕え、堺において千家流の茶の湯をひろめましたが、利休没後、晩年の道安の消息については不明なところも多く、道安の没とともに血筋は途絶えました。 一方少庵は、利休の後妻となった宗恩の子として生まれます。父は宮王三郎三入という鼓打といわれていますが、確かな記録は残されていません。母宗恩が利休の後妻となったのを機に少庵は利休の養子として千家に入り、利休のもとで茶を習います。やがて利休とともに京において茶をひろめ、茶の湯の修練を続けたのです。
利休の死後、少庵は利休高弟の1人である会津若松の蒲生氏郷のもとに身を寄せていました。またその息元伯宗旦(1578-1658)は大徳寺で修行をしており、千家は当時、一家離散の状態にありました。しかし、利休切腹から3年後の文禄3年(1594)には豊臣秀吉の勘気もとけ、少庵は京に戻ることを許されます。この秀吉の赦免の意を伝える徳川家康、蒲生氏郷の連署状は
「少庵召出状」として知られ、千家の再興を意味する書状として現在も家元に伝わります。京に戻った少庵は、大徳寺での修行を終えた元伯宗旦とともに、千家の再興を果したのです。

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Japanese Tea Culture

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