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室町将軍義満 (3代)・義政(8代)などの唐物蒐集の習いは、次第に諸方の大名・富裕な町人の間にひろがりました。抹茶飲用の草分けの鎌倉時代にはじまり、室町、安土・桃山といった茶道が組上げられる時代に至る長い年月の内に、今日「名物」の名でよばれ、由緒に富む歴史をになう、いわゆる「伝来道具」は茶の湯を愛好する諸階層に分散し保有されるに至りました。なかでも、千利休当時の名品を「名物」とよぶことが多く見られます。
江戸時代初期、小堀遠州による国焼茶入や茶碗にわが国古典文学の内より引いた歌による「歌銘」が加えられ、今日では「中興名物」の名でよばれています。
また千利休のあと三千家に分立して、町人あるいは庶民の茶としての性格を堅く守った千家では、「千家流」とも「利休流」ともよばれて、封建市民の道としての茶風を守り、利休ゆかりの道具や、千家代々の「好み物」を中心に、「わびの茶」の道具の基準・典型がよく保存されてきました。 
なお巷間「千家名物」という名のあることにふれておきます。江戸中期に至ると、茶の湯の世界が諸藩にひろがり、唐物や和物、高麗物、各地特産の茶の道具を売買する数寄道具商が、京都・大坂・江戸を中心に活躍するに至ります。やがてこれら数寄道具の紳商の間には、「千家名物」の名を冠する道具が江戸中期以後生れていました。千利休の家筋を守る「利休流」あるいは「千家流」を支える三千家伝来の道具を殊に珍重する風が生れて、「千家名物」の名を生んだものと思われます。

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室町将軍義満  むろまちしょうぐんよしみつ
足利義満。正平13・延文3年(1358)-応永15年(1408)。足利3代将軍。北山に別荘として鹿苑寺(金閣寺)を建てたことはよく知られる。
Japanese Tea Culture

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