天文22年(1553)〜元和1年(1615)。明石6万石の城主。右近允に任じられたことから、右近の称で知られる。キリシタン大名としても名高い。千利休に茶の湯を学んで「利休七哲」の一人に数えられ、潔癖な茶人としての逸話も多く残っている。キリスト教の禁令により、国外に追放されてフィリピンのマニラで没した。