『笈の小文』は元禄四年、芭蕉が嵯峨の落柿舎(らくししゃ)に滞在中に書いていますが、先に引用した個所は、じつはその前年、石山寺近くの幻住庵に滞在中に書いた『幻住庵記』初稿本に出て来ます。元禄三年四月のことです。
芭蕉の作品のなかに利休の名が出てくる最初は、私の記憶に間違いがなければ、前述の『幻住庵記』初稿本執筆の前月、元禄三年の三月中旬から下旬にかけて近江の膳所(ぜぜ)滞在中に書いた『洒落堂記』においてです。門人浜田珍夕の住居につけた文章ですが、そこには茶室・茶庭がありました。
旦それ簡にして方丈なるもの二間、休(利休)、 紹(紹鴎)二子の侘を次て、しかも其の則を見ず。 木を植、石をならべて、かりのたはぶれをなす。
利休の侘をなお客観的に眺めている感はありますが、この辺りから利休に関心を持ちはじめ、やがて「利休が茶における―」が登場する。注目したいのは、それらの執筆が利休百年の元禄三、四年に集中していたことです。“芭蕉における元禄三年”といってよいのです。
最初に掲げた「秋」の句は、芭蕉が亡くなる二ヶ月前、最晩年の作ですが、これに勝る茶″の句を知りません
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