中川淨益家のこと
中川家は、京都の殆どが燃えたと伝えられております天明の大火(1788年)で、家に伝わっておりました古文書の総てを消失、その後7代淨益が天保8年に書き綴りました「藤原中川系図」などより抜粋して、中川家の歴史を辿ります。
(表千家同門会発行『同門』より抜粋)
中川家歴代
初代
道銅紹益と号し、鎚モノ(うちもの 金属のかたまりを鎚でたたいて平板とし、さらにそれを打ちのばして、絞りを加えて立体的なものをつくる)にたくみであったとされております。俗に世にいう「利休薬鑵」は、この初代紹益の作であったといわれます。
永禄2年(1559)~元和8年(1622) 享年64歳
2代
初代に続き銅器のたぐいを作り、もって生業とす、とあり、江戸初期の寛永年間(1630年頃)に至り千家出入職となり、江岑宗左(表千家4代家元)の指示を受く、とあります。
江岑さまより、紹益の名は、佐野紹益(江戸初期の豪商。本阿弥光悦らと交わり諸芸に巧みであった)と紛らわしく、淨益と改むるよう申付けがあったので、以降は淨益と名乗りましたようでございます。
文禄2年(1593)~寛文10年(1670) 享年78歳
3代
お茶道具も数多く作られる頃となったようでございます。古来南蛮より渡来いたしました砂張(さはり 銅と錫の合金で「響銅」「佐波理」とも書く)のお仕事は、わが国では模作することは不可能とされておりましたが、その作り方を発見し成功したようでございます。
正保3年(1646)~享保3年(1718) 享年73歳
4代
銅工として優れており、鋳モノ(いもの 加熱溶解した金属を石または土の鋳型に流し込んで形づくるもの)の技に長じて精巧優雅な作風であったようでございます。長男友忠が延享年間に7代家元如心斎より渦紋の細水指を20本写し鋳るように申付けられたとあります。今日お家元に残っております「6代家元覚々斎好 渦唐金水指」でございます。
万治元年(1658)~宝暦11年(1761) 享年104歳
5代
鋳モノの技にすぐれ、8代家元
啄斎の御用をしていたようでございます。
享保9年(1724)~寛政3年(1791) 享年68歳
6代
若年、
啄斎のご機嫌を損じて、お出入りを止められたようでございます。9代家元了々斎になり出入りを許され、その後は家業ますます隆盛となり、また、宗清を名乗り、歴代きっての茶人でもございました。天明の大火にあい、家に伝わる古文書を失うなど、多難な生涯であったようでございます。
明和3年(1766)~天保4年(1833) 享年68歳
7代
砂張打物(うちもの 鎚モノと同じ意)の名人と伝えられ、その作その味、共に後人これに及ぶべきなし、とされております。「藤原中川系図(当資料の拠出)」を綴るなど、家系の温存につくし、中川家中興の礎となった人でございます。
寛政8年(1796)~安政6年(1859) 享年64歳
8代
三井家手代、麻田佐左衛門の男子を養子としてむかえ、幕末の動乱のさなかから、明治になりまして、「淨益社」なるものを設立し、日本の美術品の海外紹介につとめました。
天保元年(1830)~明治10年(1877) 享年48歳
9代
文明開化の波はわが国古来の美術品の退廃を招き、茶の湯の道にもきびしい前途が横たわっていたようでございます。伝来の家業を守り家運隆興につとめることは如何に至難の業であるか、お仕事にはきびしく、三井家より資金の援助を受けております。
嘉永2年(1849)~明治44年(1911) 享年63歳
10代
第1次世界大戦がはじまり軍需景気に日本国中が沸きにわいたこの機、9代淨益の残した借財を返済、家運の安定をはかりました。晩年は能、謡曲のたぐいに長じ、優雅な生涯を送りました。京都祇園祭の山鉾「岩戸山」の柱金具なども作りました。
明治13年(1880)~昭和15年(1940) 享年61歳
11代(当代)
昭和16年、千家に出仕、11代淨益として家業を継ぎ現在に至っております。
大正9年(1920)~平成20年(2008) 享年87歳
[11代淨益氏は、平成20年1月15日にご逝去されました]
Copyright© 2005 OMOTESENKE Fushin'an Foundation. All Rights Reserved.