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天明8年(1788)の大火は京都の大半を焦土と化してしまいました。千家も焼失しましたが、それ以前の表千家を伝える幾つかの古図があり、堀内不識斎の描いた写生図も残されています。それらを見ますと、不審菴及び残月亭と露地廻りは、江岑時代から大きな変化はありませんでした。
残月亭の南に接して不審菴が建ち、それから南方へ露地がつくられていました。不審菴の近くから空堀が東南へ向かい、その西を南へ長く延びる石畳に躙口からの飛石がつながっていました。そして空堀の北端に手水鉢が据えられていました。これが聚楽屋敷にあった手水鉢であり、現在は祖堂前の空堀に据わっています。南に向かう苑路の東に雪隠があり、さらに南へ外露地に連なっています。
不審菴の茶道口を出ると、狭い板間ですぐ左手に水屋が設けられていました。ここから残月亭の縁座敷に通じていました。
残月亭の次の間は八畳敷、その東に三畳の茶室、その奥に仏間がありました。八畳の西が玄関でした。この八畳から北へ居室部分が続いていました。
如心斎は残月亭の東方に祖堂を建てました。基壇上にたつ茅葺の草堂で、堂内の自然石の上に利休の立像が安置されていたようでした。

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堀内不識斎 ほりのうちふしきさい
安永9年(1780)-嘉永7年(1854)。江戸時代後期の茶人。表千家8代の啄斎に茶の湯を学び、9代の了々斎に仕え、幼くして家元を継いだ10代吸江斎を補佐した
Japanese Tea Culture

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