時の帝、後土御門天皇の行幸を仰いだ折、宗砌は自ら作った茶せんを天皇に献上します。天皇には、その精妙なるところが御感に入り「高穂」の御銘を賜ることになったのです。そのようなことから、高山宗砌によって創始されたとされる茶せんは、宗砌の指導のもとに、その家臣団である武士達が一子相伝の技として茶せん作りの技を学び、大切に守り伝えてきたのです。 秀吉の時代になって、鷹山は高山と改まり茶せん業は保護されることとなり、江戸時代には、これが継承され将軍家御用の茶せん作りとなりました。又、十八世紀初頭には、壹岐・和泉・丹後・信濃・筑後など国の名を冠した家が茶せん業に従事していたようで、今日まで連綿と続けられているのです。
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