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九條池から拾翠亭を望む 環境省京都御苑管理事務所提供 |
一方で、平安時代より和歌や書、音曲等の文化の担い手で家業として一家を構えてきた公家社会での茶の湯への取り組みをみると、室町時代においては公家社会では闘茶が主流で、連歌や遊宴が付随する形がとられていたようです。茶の湯の公家社会への取り込みのきっかけは、織田信長の禁裏での茶会、豊臣秀吉の2度の禁裏での茶会、あるいは北野大茶会であったと思われます。ここにわび茶が公家たちに認識されたのです。しかし公家社会にこのわび茶がそのまま取り込まれたかと言えば、そうではなく違った形で発展してゆく事になります。特に江戸時代前期の後水尾院が作りだした茶の湯の形式は広く公家たちに影響を与える事になります。茶会は書院や茶屋、小御所などで行われ、さらに王朝時代の庭園における池と結びついた、喫茶だけでは終わらない茶会で、船遊びなどの遊宴的な要素の濃いものであったようです。これには上流階級の伝統である開放的な造りの空間になじんで来た公家たちにとっては、草庵茶室の内にこもった小さく閉ざされた空間は窮屈なものであったと思われます。
江戸時代後期に茶室として作られた九條家の拾翠亭も前に九條池を配し、東山を借景としたもので、いわゆるわび茶の茶室とはかけはなれたものです。
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