旅を好んだ芭蕉にとって草庵―質素な住宅は馴れ親しんだ場所と思われますが、四畳半はどうでしょう。四畳半が草庵茶の湯の空間だとすれば、「芭蕉における茶の湯」、あるいは「芭蕉における利休」を知る必要がありましょう。それというのも元禄三年(1690)は利休賜死百年に当り、この年をピークに利休回帰、利休憧憬が進んでいたからです。百年という歳月が人間の評価の上で大きな尺度となることを示す典型的な事例です。
芭蕉が利休の名をあげている文章として有名なのが、『笈の小文』(貞享四年十月~元禄元年八月の旅の紀行文)のなかの次の部分です。
……つゐに無能無芸にして只此(ただこの)一筋に繋(つ なが)る。 西行の和歌における、宗祇の連歌における、 雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道(かんど う)する者は一(いつ)なり。
この文は芭蕉が『奥の細道』の旅(元禄二年三月~九月)を通して到達した芸術観を示したものとして知られますが、そのことに利休の存在が無縁ではなかったのです。茶以外の世界で語られた芸術論のなかで利休が登場した最初ではないでしょうか。
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