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管領細川晴元の家臣であった三好長慶は、細川氏を追い、堺そして京都を支配し一時期畿内を制圧します。
長慶は父の菩提のため堺に南宗寺を建て、弟の実休は数寄大名として知られています。
実休は利休との交流が『山上宗二記』にしるされ、三日月の茶壷など名物道具の所持者でもありました。
長慶の没後その菩提のため京都大徳寺に聚光院が創建されます。
利休は生前に聚光院を自らの菩提寺とし墓を建立しており、利休の墓は南宗寺と聚光院にあり、三好氏との関係がうかがえます。
尚、能役者宮王三郎は実休の近習であったと伝えられ、利休の妻宗恩ははじめ三郎の妻であったといいます。
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