その火災前の古図によると、門は今よりはもう少し北で、残月亭が現在の玄関あたりにあり、その南側に不審菴が引っ付いて建てられている。この時の玄関は西側にあり、東に向かって入るようになっていた。
ただ天明大火の後はしばらく火事前と建物の位置は変わっていなかったようだ。
ところが十代吸江斎31才の嘉永元年(1848年)に描かれたという古図では、茶席や露地の配置がまったく違い、現在の千家とほとんど同じ構成となっている。
吸江斎時代の古図に載っている玄関が、竹を横に渡した濡れ縁の式台のようで、現在の本玄関と同じ構えであったのかもしれない。
治宝侯をお迎えしたのは、この玄関であったろうか。
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