さて四畳半の茶席とは、一般に広間と小間の境となる広さで、つまりそれより広いと広間、狭いと小間とよぶ。この構えを最初に考案したのが村田珠光(むらたしゅこう)とされている。
この珠光を召しかかえた室町幕府八代将軍足利義政は、別荘として造営した東山殿(現在の銀閣寺)に、持仏堂である東求堂(とうぐどう)を建立した。その東北の一角に付書院(つけしょいん)と違棚(ちがいだな)を備えた四畳半の構えが造られた。ここが同仁斎(どうじんさい)である。
書院飾(座敷飾)の源流といわれる席で、茶席の始まりとされ国宝となっている。
しかし真座敷(しんのざしき)といわれる珠光の四畳半は、白い鳥の子和紙の貼り付け壁、一間の床、付書院など、まだいまでいう草庵の小間の風情ではなかった。
しかも自身が茶を点てる道具として、書院飾の華やかな上段にあった台子を、点前畳に降ろしたのである。