「麟閣」は400年を超える時を経て現在に伝えられてきました。幕末から明治維新の動乱によって戊辰戦争が勃発するなか、明治元年(1868)9月、会津藩は会津戦争に敗れ、鶴ケ城も取り壊されることになります。しかし、麟閣が失われるのを惜しんだ当地の森川善兵衛は、城下の自分の屋敷に麟閣を移築したのです。
森川家は、蒲生氏郷が会津をおさめていた戦国時代から薬種商をいとなみ、代々善兵衛を名のりました。麟閣を移築したのは8代善兵衛で、名は昌茂といい、指月庵宗久の号があります。石州流怡渓派(いけいは)の茶道を学び、慶応年間には会津藩の茶堂役をつとめました。
以後、森川家は120年にわたってその維持につとめられました。平成2年には、会津若松市の市政90年を記念して、麟閣はもとの鶴ケ城に移築され、現在もその姿をとどめています。
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