永樂家の焼物が、千家様の茶の湯で特に取りたてて用いられるようになったのは、明治の後半、14代得全の未亡人お悠さん(妙全)の時代です。明治維新で大名家がなくなり、千家様のみでなく、茶道具をつくっていた家も衰退しました。その後、茶の湯が復興しはじめ、女性の社中さんがふえ、広間の茶の湯が盛んになると、お悠さんがデザインした優しく華のある焼物が、懐石道具などで好まれるようになったのです。
父の即全は、祖父、正全の急逝で昭和10年(1935)に16代を襲名しましたが、はじめは食器が中心で、土風炉も造っていました。昭和30年、戦後のまだ何もない頃で、多くの人が雅で美しい京都の文化にあこがれ、きれいなものにふれたいと感じる時代、父は茶の湯道具を製作しはじめました。時代の流れのなかで、即中斎宗匠のご意向のもと、父の道具が千家様の茶の湯に用いられるようになりました。
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