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千利休『逢源斎書』より

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その4

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千道安「茶の湯道歌」より

千宗旦「元伯宗旦文書」より

千宗旦「茶杓絵讃」より

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千少庵
   「少庵の事績 京都と会津」

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千利休 『逢源斎書』より その5
利休料理人一通と申者在之候、膳ニふささんせう一通置申様ならぬと休御申候由ニ候、

さて、この続きには、利休のそばにいた人たちのことが記されています。料理人には一通のほかに「西道」と「妙をん」がいました。また、茶堂に「正言」と「正玄」、小姓に「かも」、物書に「なるミ」という人がいたといいます。物書は利休の代筆をした人です。しかも、この「なるミ」は「今ノ御茶堂之なるミ宗円ぢいニ御座候」(今の御茶堂のなるミ宗円の祖父です)と記されています。宗旦、江岑宗左の活躍した江戸時代前期に徳川将軍家の茶堂役であった鳴海宗円の祖父でした。
利休は決して茶の湯の準備を人まかせにするのではなく、自らが中心となっておこないました。利休の茶会に訪れたある堺の茶人は、手紙のなかで「利休は六十歳を過ぎても、元気にてきぱきと茶の湯の準備をしていた」と記しています。しかし、秀吉の茶堂として、また天下一の茶人として多忙をきわめていた利休を、こうした人たちがしっかりと支えていたのでしょう。

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