世界の喫茶文化
茶の湯の伝統
利休の茶の湯とその流れ
茶室と露地
形とふるまい
茶の湯の道具
茶の湯の楽しみ
静聴松風
茶人のことば
村田珠光「心の文」
武野紹鴎『山上宗二記』より
その1
その2
千利休『逢源斎書』より
千道安「茶の湯道歌」より
千宗旦「元伯宗旦文書」より
千宗旦「茶杓絵讃」より
江岑宗左「江岑宗左茶書」より
千少庵 「少庵の事績 京都と会津」
随流斎『随流斎延紙ノ書』より
表千家の茶事
内弟子「玄関」の一年
茶の湯の歳時
茶の湯の菓子
茶室への誘い
利休をたずねる
花所望
さて、連歌は鎌倉時代から流行しはじめ、ことに南北朝時代から室町時代を通じて隆盛しましたが、戦国時代には、自由都市の堺でも人気を博しました。富裕な町衆はしばしば連歌師を招き、連歌の会を開いています。連歌師は職業として歌を詠み、連歌会の一座に加わって、座をまとめる役割を果たしたのです。紹鴎も、こうした環境のなかで連歌に強く心をひかれていったのでしょう。 紹鴎は結局、連歌を職業とはしませんでした。三十歳まで連歌師であったというのも、それを職業にしていたということではないでしょう。紹鴎は堺でも屈指の豪商で、すこぶる豊かな財力をそなえていましたから、連歌が好きで、連歌師を経済的に支援するような存在であったのでしょう。 しかし、連歌は紹鴎の茶の湯に大きな影響を与えました。紹鴎は、連歌における「冷え枯れた」境地をわび茶の極意として、それをさらに深めていったのです。
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