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天正18年秀吉の北条攻めに従って利休も小田原に出陣します。
3月に京をたち7月の小田原城落城までこの地に留まったと思われます。
この地より古田織部に送った「武蔵鐙の文」には
「我等ふし(富士山)唯一山にてかんにん(堪忍)申候
ふし(富士)にもをとらぬはい(蠅)多候 此両種にて候」や、
「筒(花筒)ふしきのを切出申候」などとあります。
陣中にては茶会も催され、利休好の旅箪笥や板風炉などは
この地で使用されたものと思われます。
また堺以来の弟子山上宗二が秀吉に惨殺されたり、遅れて参陣した
伊達正宗が、「茶のこと聞カセラレタシ」と利休に対面を希望したことなどが知られています。
この後秀吉は奥州に向い、利休は京に帰ったと思われます。蒲生氏郷は会津を与えられ、
会津黒川を会津若松と改め城を築きます。
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