聚楽第が造営されたところは、平安京の大内裏の跡であった。石垣を築いて堀をめぐらし、天守を建てそして聚楽数寄屋といわれる豪華な屋敷を建てた。
完成にともない天正15年の八朔(はっさく)行事はここで執り行った。その後大阪城を出て聚楽第に移った秀吉は、この場所に後陽成天皇の行幸を得て天下人の偉容を誇った。
この聚楽第の周りに、大名や津田宗及らの屋敷が建てられた。利休も葭屋町(よしやまち)に屋敷を建て、四畳半や二畳の茶室と共に、太閤の御成になる書院として色付九間書院の広間も造営した。
利休が望むとか望まないとかにかかわらず、天下人を迎えるに相応しい茶席を設える必要があった。
そのため二畳の上段があり、付書院のある四畳の中段が続く。ただしこの中段の天井は化粧屋根裏で、そこには突上窓が開けられていた。秀吉は上段の柱にもたれ(太閤柱という)て名残の月を眺めたことから、後に残月亭とよばれることになる。
千家復興の後に、少庵は利休の聚楽屋敷にあった清々しい緊張感があるこの書院を写した。それは整然と並んだ障子や襖の建具で表現される縦横の線模様であり、付書院の障子窓も、かつて足利将軍が営んだ同仁斎(どうじんさい)のそれを彷彿させる。襖は秀吉の家紋である五七の桐の置上となる。
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