室町時代に入りますと、茶の湯は身分階層をこえて大変流行します。茶寄合、闘茶などに人々が群集し茶の湯を楽しみました。15世紀の前半頃、当時の歌人正徹は、歌論書『正徹物語』のなかで、和歌の評論にたとえながら茶の湯に集う人々を三種類に分類しています。その三種の人々というのは、「茶数寄」と「茶飲み」と「茶くらい」の三つでした。 「茶数寄」というのは、諸道具を美意識をもって所持し茶の湯を楽しむ人でした。「茶飲み」というのは、闘茶で茶の銘柄をみごとに飲み分ける人で、「茶くらい」というのは、茶の寄合があるといえば何はともあれ参加して楽しむ人たちでした。 正徹が、当時の茶の湯に集う人のなかに、茶の湯に対して美意識をもって立ち向かう人を見出したことは、茶の湯の成立においても大切なことでしょう。正徹は、「茶数寄」を歌人にたとえると、「硯・文台・短冊・懐紙などを美しく好んで、いつでも人の歌に自分の歌を添えることができ、歌の会などでは指導者になる人」というふうに説明していますが、階層をこえて流行した茶の湯のなかから、諸道具を所持し美意識をもって茶の湯に接する人が出始めたことを、正徹は語っています。 当時、和歌や連歌は一人で楽しむ文芸ではなく、人々が寄り合って楽しむ集団の文芸でしたが、その寄合の場では、茶の湯や香や花も楽しまれていたのでしょう。茶の湯の境地を新たな芸能として洗練するのに、和歌や連歌などの文芸が関係するのも、そのような芸能の場の重なりが背景にあったのでしょう。正徹による「茶数寄」の指摘は、和歌・連歌・香・立花などの寄合の芸能から、茶の湯が洗練された独自の芸能として自立しはじめたことを示しています。
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