村田珠光の有名な言葉として、「月も雲間のなきは嫌にて候」という言葉があります。これは、歌人兼好の著書『徒然草』の「花はさかりに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは」という、不完全・不足をかえってよしとする不完全美や、心の眼で見る美しさをたたえる思想を背景にしたものです。茶の湯の成立には、このような美意識の成立が背景にありました。その美意識は、和歌世界の伝統や、鎌倉・室町時代に流行した連歌の世界によって生み出されたものでした。 千利休の師の武野紹鴎も、わび茶の目標として、「連歌は枯れかじけて寒かれと云ふ。茶の湯の果てもその如く成りたき」という言葉を残したと伝えられています。珠光も紹鴎も、ともに和歌・連歌に親しみ、その美の境地を茶の湯にとり入れ、わび茶を創造したのでした。特に、連歌の世界では、「冷えさびる・枯れる」という言葉でその境地を説明しましたが、これは、歌人正徹の弟子であった心敬の連歌論によるもので、その美意識は、その弟子宗祇に伝えられ、紹鴎の師である三条西実隆に受け継がれます。 こうして和歌や連歌の美意識が、珠光や紹鴎という茶の湯の先達にも引き継がれたのでした。茶の湯の世界でたびたびその境地を和歌によって象徴するのも、このような古典文芸の背景があるからです。 また、鎌倉・室町時代に流行した連歌の会は、一座に人々が集まって一定のルールの下で催されましたが、おそらくその場では、「香」も焚かれ、「花」も生けられ、茶の湯もおこなわれたことと思われます。こうした人々が寄り合う芸能のなかから、会の進行やしぐさなどの規範が生み出され、茶の湯の文化も生み出されたことを考えますと、連歌会などの「寄合」の文化は、茶の湯の母体であったともいえるでしょう。
27
Copyright© 2005 OMOTESENKE Fushin'an Foundation. All Rights Reserved.