利休が信長、秀吉の茶堂として活躍したように、信長の時代から茶の湯は政治の舞台にも登場します。茶の湯は大名たちのたしなみの一つでもあり、彼らは競って優れた茶匠を身のまわりにおいたのです。 3代の元伯宗旦にも、利休の孫ということで幕府をはじめ多くの大名から誘いがあったと思われます。しかし利休の悲劇の再現を危惧した宗旦は、生涯茶の湯で大名に仕えることなく、「わび宗旦」とあだ名されるほどの清貧な生活に徹しました。そして社会の情勢に左右されることなく、利休以来のわび茶を体現することに生涯を費やしたのです。 17世紀に入り、社会は戦国の動乱期から、徳川幕府の治世による江戸時代へと移り変わりました。こうした安定した社会情勢は、茶の湯の世界にも変革をもたらします。宗旦には4人の息子がいました。自身の姿勢とは対照的に、安定した時代背景をもとに茶道の社会的立場を考えた宗旦は、3人の息子を茶堂として大名家に出仕させることになります。 宗旦の三男で、幼い頃より後継者として養育された江岑宗左(1613-72)は寛永19年(1642)、徳川御三家の一つ、紀州徳川家に茶堂として召し抱えられました。当時の初代紀州藩主、徳川頼宣は茶の湯に造詣が深く、利休の直系である江岑を重用しました。現在も家元に伝わる葵御紋茶碗は、江岑が頼宣に茶を献じた際に用いたものとして知られます。 この後、表千家代々の家元は幕末まで紀州徳川家に茶堂として仕え、その茶の湯にも大きな影響を受けることになったのです。
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