
堺から上洛した利休は、大徳寺門前屋敷に四畳半を建て、不審菴の額をかかげたことが伝えられています。やがて、聚楽第の城下にも屋敷を設けました。葭屋町元誓願寺の辺りでした。この屋敷には、桧づくりの書院と、色付九間書院という二棟の書院があり、四畳半と二畳の茶室がありました。
利休ははじめ一畳半の茶室を建て、世の注目を浴びました。ところが秀吉が「一畳半は嫌いだ」と言ったので、利休も二畳敷に改めたのでした。天正16年(1588)古渓和尚送別の茶会を催したのは、この四畳半でした。桧づくりの書院では神屋宗湛を招いて台子の茶をしたこともありました。
城下の屋敷のなかで利休の屋敷は、ひときわ目を惹(ひ)いたようです。寺とも武家屋敷とも思われない、屋根の勾配(こうばい)は、はやからず、緩(ゆる)からず、建物は高くもなく低くもなく、言うに言われぬ「しほらしき」たたずまいであったと伝えられています。これは、たんに茶室だけでなく、利休が屋敷全体のデザインに茶の湯の心意気をかよわせたからなのでしょう。
天正19年(1591)2月28日、利休はこの屋敷で自刃したのでした。
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