利休切腹後、少庵は会津の蒲生氏郷に預けられました。間もなく帰洛を許された少庵は本法寺前の地に千家を再興しました。南北41間、東西16間、但し南方では14間の地でした。その頃どんな建物があったかわかりませんが、慶長13年(1608) 2月25日千家を訪れた松屋久重が、茶会記に二つの茶室の間取図を描きとめていました。 この日松屋はまず最初に宗旦の茶に招かれました。その茶室は平三畳、向切で、客座と点前座の間に中柱を立て、仕切壁を付けて火灯口を開いていました。亭主は道具を運び付けてから着座して、火灯口の襖をあけるのです。それで運びの所作が客には見えません。足の不自由であった道安が工夫したという伝えから道安囲という呼称が生まれましたが、確証はありません。道安囲は台目切、向切は宗貞囲とする呼称もあります。 次に松屋は少庵の茶によばれました。この時の茶室は深三畳台目でした。床は間口5尺の床で、床柱は角で、床框は真塗でした。そして点前座と客座の間には中柱が立つ台目構えですが、その仕切りの壁が下までついていたのです。つまり客座から道具の座は見えませんでした。実はこの茶室は、利休が大坂屋敷に初めて建てたという茶室を再現したものであったようです。台目構えの原型が示されていたのです。大坂屋敷の茶室に招かれた博多の神屋宗湛は、茶会記の中で点前座を「次の間」と書いていました。要するに利休が次の間で点前をしているように宗湛の目にうつったのです。そう言えば、先の宗旦の使っていた茶室も、点前座は敷居を隔てた次の間のように位置づけられていました。このように当時の千家には、こうした二つの茶室があったのです。 また松屋は茶のあと書院に通されていました。これは少庵が聚楽屋敷にあった色付書院をもとに建てたという残月亭のことでした。
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