三畳敷、深三畳台目の茶室はその後どうなったかわかりません。明らかなことは、宗旦が床なしの一畳半を建てたことです。それは寛永10年(1633)のことと推測されています。その頃宗受と称していた江岑に宛てた7月28日付の手紙のなかに「小座敷去(さる)二十三日よりたて候て 今日はやねふき申候」と書いていました。一連の手紙には、宗旦が床なしの一畳半の成るのを待ち望み、その完成を喜んだ心情が溢れています。そして披(ひら)きの茶事に専念していた様子も偲ばれます。近衛信尋の御成も迎えることができました。 この一畳半は、南向に建てられ、葺きおろしの屋根に蔽(おお)われた一畳台目です。炉は向切、ゆがみある赤松皮付の中柱が立ち、袖壁をつけ、竹の壁留を入れて下を吹き抜いています。点前座の隅には一重棚を吊っていました。天井は張らないで全部竹垂木の化粧屋根裏です。 建物としてこれ以上省略できないという極限のたたずまいです。そして床まで除かれているのです。 利休は聚楽屋敷に一畳半を造りました。世間で初めての試みで注目をあつめました。ところが、一畳半は「太閤ノ御意」にいらなかったと江岑が伝えています。それで利休は二畳敷に改めたのでした。この一畳半にも利休は床を設けていました。もちろんわびた一畳半のことですから室床にしていました。宗旦はその床さえ省いたのです。そして「花も掛物も」要(い)らぬ座敷であると江岑に教えていました。 床なしの一畳半は、まさにわび茶の究極の姿であったのです。宗旦はそのような茶室を不審菴と称し、千家の茶の象徴としたのでした。 正保3年(1646)4月13日、宗旦は譲状をしたため、この一畳半を江岑に渡して裏へ隠居しました。
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