外腰掛の前方に中潜があります。短い塀に潜りを切り抜いた形式の中門です。利休も聚楽屋敷の露地で同様のことを試みていました。亭主はここで客の迎え付けをします。ここを潜ると広々とした露地が続き、正面奥に梅見門が見え、左手には残月亭の軽快な切妻屋根に庇を付した穏やかな外観がのぞまれます。東へ飛石を進みますと、左方へ七畳に向かう苑路が分れています。直進すると、いよいよ残月亭の露地です。残月亭、梅見門、巧みな飛石の配列、そして右手の井戸、程よい植込がつくり出す風景が展開します。飛石を左へ伝うと残月亭の土間庇です。飛石がなだらかに沓脱石に連なる布石は、実に巧妙です。右手に手水を使う桶をおく台石が据えてあります。土間庇の右端の袖垣は百人垣と呼ばれています。残月亭は、昔から不審菴とともに使われてきた書院であります。聚楽屋敷の色付書 院を縮小して少庵が建てたのがはじまりです。十畳敷の座敷に二畳の天井の低い上段を設け、付書院をそなえ、その前を化粧屋根裏にした珍しい構成は、色付九 間書院の特色をうけ継いでいます。書院でありながら、角柱と丸太が使われ、屋根裏を取り入れるなど、利休の自由奔放な創意工夫によって魅力的な空間をつくり出しています。上段が床の間として使われ、残月床と呼ばれています。色付九間書院に秀吉の御成があった時、彼は上段のかど柱にもたれ、屋根裏の突上窓から名残りの月を眺めたという逸話から、今も上段の柱を太閤柱と呼んでいます。
64
Copyright© 2005 OMOTESENKE Fushin'an Foundation. All Rights Reserved.