それはさておき、古来残月亭の次の間とし十畳の広さの座敷があった。歴史的には残月亭の元になる聚楽第の利休色付書院から存在するが、やはり太閤殿下をお迎えするに相応しい控えの座敷ということであろうか。
当初は八畳に二間床であったが、覚々斎の頃には床を縮めてその横に台目畳を入れたのである。川上不白が書き残した図にもそのように記されている。
この席名が付かなかったのも、残月亭の控えの間という考えがあったからであろうか。後には八畳に台目畳を足したので「九畳」の間と呼ばれることになった。
不白の古図では九畳の西側に三畳の入側(いりがわ)があり、続いて玄関の土間となっている。つまり玄関を上がると、すぐに九畳の間へと続いている。
天明の大火で千家が焼け、急遽啐 斎が利休二百年遠忌に間に合うよう建物を復興するのだが、この時九畳の西側に茶席を付け足した。
ここは六畳敷の席で、床前に板を入れた台目床と、その横に台目畳を入れて都合「七畳」となる席を造ったのである。
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