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武野紹鴎は堺の町衆です。通称は新五郎、名は仲材、大黒庵と号しました。堺では屋号を皮屋といい、おそらく武具甲冑などに関係する商家であったと思われます。武野家は堺では最も富裕な家でしたが、紹鴎は若き日に京都にのぼり連歌に没頭しました。当時、歌学の権威であった三条西実隆について古典を勉強し、『詠歌大概』を授けられました。おそらくこうした連歌の素養が、紹鴎の茶の湯に大きな影響を与えたと思われます。堺に戻ってからは、南宗寺に住した禅僧大林宗套に参禅し、茶の湯に開眼すると同時に茶禅一味のわび茶を深めることができました。
紹鴎は名物といわれる道具を60種も所有する一方、白木の釣瓶
水指に見立てたり、竹を削って自ら茶杓をつくったり、あるいは青竹を切って蓋置にするなど、清浄な白木の美を茶の湯に加えることに成功しました。こうした創造的な茶の見方が紹鴎の弟子千利休に伝えられ、茶の湯は大成されることになります。

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『詠歌大概』 えいがたいがい
藤原定家(1162-1241)の歌論書。建保3年(1215)以後の成立とされる。
大林宗套 だいりんそうとう
文明12年(1480)-永禄11年(1568)。堺の南宗庵(南宗寺)から大徳寺に入り、第90世住持となった。武野紹鴎の画像に讃をしており、そのなかに「茶禅一味」の語が見える。
釣瓶 つるべ
井戸の水を汲みあげるときに使う道具。
Japanese Tea Culture

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