江戸時代も中期になると、都市生活が発展し、茶の湯人口が増大しました。 6代の覚々斎(1678-1730)は利休流の茶の湯を守りつつ、新たな境地を求めて自由な茶の姿勢を貫きました。また後に徳川幕府の8代将軍となる吉宗に茶堂として仕え、桑原茶碗と称される唐津焼の茶碗を拝領しました。 7代の如心斎(1705-51)は、千家茶道中興の祖といわれ、現在の家元制度の基盤を築き上げた人物とされています。茶道人口の増加にともない、茶の湯が遊芸化へと傾きつつあった時代にあって、新たな稽古の方法として七事式を考案します。また利休時代より家元に伝来する道具をととのえ、極の書付をしました。そして元文5年(1740)の利休150年忌を機に、利休像をまつった祖堂を建立、さらに利休没後千家を離れていた「利休遺偈」を江戸の冬木家より戻すなど、初祖利休への回帰を第一義としたのです。また息の啄斎(1744-1808)に宛てた「云置」は、家元の一子相伝を明確に示したもので、その後の茶の湯継承において大きな指針となるものとして知られます。 9代の了々斎(1775-1825)は、10代紀州藩主徳川治宝の茶堂として仕えます。治宝は歴代の藩主のなかでも特に茶の湯に造詣が深く、利休茶道の皆伝を受けたほどでした。了々斎は晩年治宝を家元にむかえ茶事を催します。現在の表千家の表門は、この時代に紀州徳川家より拝領したものです。また了々斎の死去により若くして家督を継いだ10代の吸江斎(1818-60)は、さきに了々斎から皆伝を預かっていた治宝より皆伝を授けられ、表千家茶道の道統が守られたのです。
40
Copyright© 2005 OMOTESENKE Fushin'an Foundation. All Rights Reserved.