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随流斎が江岑の養子となったのは、10歳を過ぎた頃であったと考えられます。この頃、随流斎の名は宗巴(そうは)でしたが、宗見が江岑に宛てた手紙には、江岑が留守の千家において、宗見と江岑の妻やつ(八)が茶の湯に向き合う幼い宗巴を見守っている様子が記されています。
また、加賀前田家に仕官していた仙叟が暇をもらって千家に戻ってくると、仙叟は随流斎のたてた茶をのみながら、それとなく茶の湯の稽古をつけていたといいます。随流斎は幼い頃から仙叟にも可愛がられ、茶の湯に関するいろいろな話を聞いたことと思われます。
ところで表千家不審菴には、随流斎を継承した6代の覚々斎(随流斎の兄、久田宗全の長男)が写した『茶之湯道聞書』という茶書が伝わっています。この茶書は仙叟の弟子であった金沢藩士、大平源右衛門という人の聞書で、仙叟の茶の湯に関する貴重なものです。覚々斎は江戸でたまたまこの茶書と出会って写したようです。覚々斎もこの茶書を通じて、仙叟の茶の湯を学んでいたことがわかります。
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