世界の喫茶文化

茶の湯の伝統

利休の茶の湯とその流れ

茶室と露地

形とふるまい

茶の湯の道具

茶の湯の楽しみ

静聴松風

茶人のことば

村田珠光「心の文」

武野紹鴎『山上宗二記』より

千利休『逢源斎書』より

千道安「茶の湯道歌」より

千宗旦「元伯宗旦文書」より

千宗旦「茶杓絵讃」より

江岑宗左「江岑宗左茶書」より

千少庵
   「少庵の事績 京都と会津」

随流斎『随流斎延紙ノ書』より

その1  その6  その11  

その2  その7  その12

その3  その8  その13

その4  その9  その14

その5  その10  その15

表千家の茶事

内弟子「玄関」の一年

茶の湯の歳時

茶の湯の菓子

茶室への誘い

利休をたずねる

花所望

随流斎 「随流斎延紙ノ書」より その3
伝ハ紹鴎ニ得申、道ハ珠光ニ得申
【大意】
茶の湯の伝授は紹鴎から受け、道は珠光から得ました。

随流斎が『随流斎延紙ノ書』に書きとめた利休の伝承です。織田信長が安土城にいた頃、堺の名だたる茶人、住吉屋宗無と納屋(今井)宗久が信長に宗易(利休)の噂を申し上げると、信長は2人と共に利休を召し出しました。
その時、信長が利休に「茶の湯の本当の伝授は受けているのか」と尋ねると、利休は「伝は紹鴎から受け、道は珠光から得ました」と答えたといいます。そこで信長が「紹鴎から伝授を受けたというのはわかるが、珠光は年数が違うではないか」と尋ねると、利休は「投頭巾の茶入の修復と圜悟の墨跡の表具によって珠光に道を学びました」と答えたというのです。
武野紹鴎が弘治元年(1555)に54歳で亡くなったとき、利休は34歳でした。しかし、利休が生まれたのは珠光が文亀2年(1502)に亡くなってから20年後の大永2年(1522)です。利休は珠光を直接知りませんが、珠光ゆかりの道具である投げ頭巾の茶入と圜悟克勤(えんごこくごん)の墨跡を通じて、珠光から茶の湯の道を得たと言いました。
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Japanese Tea Culture