天正10年 1582
千利休、京都の山崎に待庵(二畳敷の茶室、国宝)を建てる。
天正13年 1585
豊臣秀吉(1536-98)、京都御所において正親町天皇に茶を献じる(禁裏茶会)。千利休も茶堂として出仕し、正親町天皇から「利休居士号」を与えられ天下一の宗匠となる。
天正14年 1586
豊臣秀吉、禁中に黄金の茶室をはこび茶会をおこなう。
奈良の茶会で「宗易形ノ茶ワン」(利休の意匠により長次郎が焼いた楽茶碗)が用いられる。
天正15年 1587
豊臣秀吉、北野天満宮において北野大茶の湯を催す。
天正17年 1589
千利休が修復を寄進した大徳寺山門「金毛閣」が完成し、利休の木像がかかげられる。
天正19年 1591
千利休切腹。千家は一家離散となり、 少庵は会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられる。
文禄3年 1594
千少庵、徳川家康と蒲生氏郷のとりなしで 豊臣秀吉に許されて京に戻り、千家を再興(少庵召出状)。 |
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1577
ロドリゲス(ポルトガル人のイエズス会宣教師)来日。のちにその著書 『日本教会史』 のなかで茶の湯文化を詳しく記述。
1592
ルイス・フロイス、その著書 『日本史』 に茶の湯を詳しく記述。 |
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