承応1年 1652
金森宗和(1584-1656 宗和流の流祖)の書状に、野々村仁清の御室焼を仲介した記述がみえる。
承応2年 1653
宗旦、又隠居(再び隠居)して、もとの隠居の二畳を「今日庵」と命名し、又隠居の家に 四畳半を建てて 「又隠」 と命名。仙叟宗室(1622-97 千宗旦の四男)は、「今日庵」を継承して裏千家の基礎を固めた。
寛文3年 1663
『江岑夏書』(江岑宗左の聞書)が成る。
寛文12年 1672
随流斎、大徳寺の一渓宗什より 「随流斎」 の号を与えられる。随流斎は晩年に 『随流斎延紙ノ書』 (茶の湯の覚書)を著した。
延宝4年 1676
一翁宗守(1605-76 千宗旦の次男)没する。晩年千家にもどり、武者小路千家(官休庵)の基礎を固めた人物である。
元禄3年 1690
利休100年忌。福岡藩士の立花実山、『南方録』 (利休の秘伝書)を編集。
山田宗 (1627-1708 宗旦四天王の一人で 宗 流の流祖)、『茶道便蒙抄』 を刊行。
元禄13年 1700
『茶話指月集』 (千利休の逸話集)刊行される。 |
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1657
イギリス東インド会社、オランダ東インド会社にかわりイギリス市場に茶を販売。
1662
ポルトガルの皇女キャサリン、イギリスのチャールズ2世に嫁ぎ喫茶の習慣をもたらす。以後、宮廷社会に茶が広まる。
1669
イギリス、オランダからの茶の輸入を禁止。
1680
イギリスのサブリエール夫人、はじめて紅茶に ミルクを入れたという。
1689
中国とロシア、ネルチンスク条約を締結。中国からロシアへ 陸路で茶が輸出される。
1690
ケンペル(ドイツ人医師)来日。『江戸参府旅行日記』 に庶民の茶を記述。 |
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