徳川幕府が中央集権的な政治を確立する江戸時代、ことに17世紀は、茶の湯が流儀化の時代をむかえます。千家についていえば、利休の孫宗旦の3人の息子たちによって三千家が成立しました。すなわち、三男の江岑宗左が表千家、四男の仙叟宗室が裏千家、次男の一翁宗守が武者小路千家の基礎を固めたのです。なかでも江岑宗左は、おもに父の宗旦から千家に伝わる利休の伝承を聞いて書き留め、多くの聞書を残しました。それは、次第に遠ざかっていく流祖利休のおもかげを、できるかぎり千家に残そうとするためでした。このように、千家に伝わる茶風と伝統を確認し、茶の家の流儀として自立を果たそうとしたのです。 宗旦の3人の息子たちは、大名家に茶堂(道)として仕官しました。江岑宗左は紀州徳川家、仙叟宗室は加賀前田家、一翁宗守は高松松平家に仕官を果たし、茶堂(道)職の家ともなったのです。それは、役職の安定を意味し、茶の家として確立する基盤になったといえるでしょう。また、武家を流祖とする三斎流(細川三斎)、有楽流(織田有楽)、遠州流(小堀遠州)、宗和流(金森宗和)、石州流(片桐石州)などの流儀も成立して、17世紀の後半には、家元制度の基礎が成立しました。
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