古田織部は豊臣秀吉の家臣で、若い頃から千利休に茶を学びました。ことに利休が秀吉から譴責(けんせき)されて、死を覚悟して堺にくだる時に、古田織部は利休を淀まで見送ったことでも有名です。織部は利休没後、天下の宗匠として2代将軍徳川秀忠の茶堂ともなります。しかし、織部の茶の湯は利休と同じように既成の権威を認めず、自由な創造性に富んでいました。ことに当時流行したカブキの精神、つまり、まともならざる異風異体なるものへの興味が織部の茶のなかにも貫かれていて、織部の茶碗といえば、大胆にデフォルメされた姿を見せています。こうしたアンバランスなものへの織部の好みは、新しい時代にそぐわなかった面もありましょう。大坂夏の陣の後、徳川秀忠によって切腹を命じられ死をむかえました。織部の弟子が小堀遠州です。 小堀遠州は、はじめ豊臣秀長の家臣でしたが、やがて徳川幕府のもとで大名になります。遠州は織部の創作的な茶の湯を受け継いで、新しい時代にふさわしい創作を果たします。つまり、織部の持っていた激しいアンバランスな美はすっかり姿を消し、新しい安定した時代にふさわしい優美で均衡のとれたきれいさびといわれる茶の湯を創造しました。こうした織部と遠州という大名茶の系譜は、のちに片桐石州に受け継がれ、武家方の茶道として江戸時代を通じて継承されています。
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