天正10年代に入ると、利休の権威はその隆盛をむかえました。と同時に利休の茶の湯もこの頃に大成の域に達したのではないかと思われます。 天正13年(1585)10月7日、秀吉の関白就任を記念して行われた禁裏茶会において、利休は正親町天皇に茶を献上した秀吉の後見役をつとめました。またこの時に利休は正親町天皇より「利休居士号」を下賜され、名実ともに天下一の宗匠としての地位を確立したのです。 天正15年、秀吉の九州島津攻めに随行した利休は、博多の筥崎宮などで茶会を行い、博多の豪商神屋宗湛、島井宗室らとの交流を深めました。またこの頃秀吉の聚楽第が完成し、利休もその近くに屋敷を賜ります。葭屋町元誓願寺前の利休屋敷には桧づくりの書院、色付九間書院、四畳半、二畳の茶室がありました。現在の表千家残月亭は、この聚楽屋敷にあった色付九間書院の茶室を写したものといわれます。床の間の柱は、利休の屋敷を訪れた秀吉がもたれかかって名残りの月を眺めたといわれ、「残月亭」の名の由来にもなっています。 天正15年10月1日、秀吉は北野天満宮の境内において、北野大茶の湯を催します。この茶会は天下をほぼ統一した秀吉が、その権勢を天下に知らしめるために行われ、秀吉が所持していた名物道具が、数多く用いられました。利休は津田宗及、今井宗久らとともにこの茶会の演出に関わります。境内には800ヶ所に及ぶ茶点て所が設けられたといわれており、当時の茶の湯の流行に大きな影響を与えました。
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