天正17年(1589)12月5日、利休の寄進により大徳寺山門の修復が完成、3日後の12月8日に利休は聚光院において父一忠了専の50回忌を営みます。その導師を春屋宗園と古渓宗陳がつとめたように、利休と大徳寺との関係は密接なものがありました。 天下人の側近として、また天下一の茶の湯者として名を馳せた利休の生涯は、皮肉にもその天下人、秀吉との対立により幕を閉じます。利休切腹の原因については、これまでにもさまざまな解釈がなされてきました。大徳寺山門に掲げた利休木像の件が一般的に知られますが、本当の原因が何であったのか、現在では知る由もありません。しかし、近年発見された4代家元の江岑宗左が記した覚書(画像参照)のなかに興味深い一節があります。「利休がつくった一畳半の茶室が太閤(秀吉)の御意に入らず、二畳敷になおした。露地の外を白壁にして松を植えたが、これも御意に入らずなおした。この頃から少しずつ、利休の創意が太閤に受け入れられなくなっていった。」 利休死去から時代を経て書かれたものですが、このように2人の対立の根本には、茶の湯に対する考え方の違いがあったことをこの一文は物語っています。いずれにせよ、利休の切腹は、芸術と権力の狭間に生じた葛藤の象徴といえるのではないでしょうか。 天正19年閏1月24日、利休は徳川家康1人を茶会に招いています。これが記録に残る利休の生涯で最後の茶会となりました。翌2月13日には秀吉から堺へ追放令が出され、利休は堺へ蟄居となります。淀から船で大坂へ下る利休を、高弟の古田織部と細川三斎が見送ったという逸話が伝えられています。 切腹のため再び京都へ呼び戻された利休は、2月25日に辞世をしたため、28日の切腹の日をむかえました。雷鳴がとどろき、霰が降る荒れた天候のなか、利休は聚楽屋敷でその70年の生涯を閉じたのです。
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