利休の茶の湯を知るうえで、利休の開いた茶会を考えることは、その大きな指標となるでしょう。利休は点前、作法を厳格にすることで茶会の緊張感を高め、客と亭主との出会いに「一期一会」というほどの重みを持たせました。また道具、料理、茶室など、さまざまな部分に工夫を凝らし、茶会は利休のわびの美と心を体現する場となったのです。 まず利休は、自身のわび茶にかなう道具を、専門の職人に命じてつくらせました。こうして長次郎の楽茶碗や与次郎の茶の湯の釜が生まれます。また一汁三菜という簡素な懐石も利休のわびの理念が生み出したものといえるでしょう。 さらに利休の工夫は茶室にも及びます。現存する待庵に見られる二畳の茶室は、わび茶を表現するための、亭主と客の最小の空間となりました。また重要な要素として、客が潜り入るにじり口の工夫もなされます。こうしたすべての要素により、茶室のなかは緊張感に満ちた聖なる空間となったのです。 こうした実際の茶会の様子を知ることのできる史料が、茶会の記録である茶会記です。『松屋会記』、『天王寺屋会記』、『宗湛日記』など、利休と同時代に活躍した茶人による記録が、利休の茶会、そして当時の茶の湯の様子を物語っています。 利休は最晩年の天正18年(1590)から19年にかけて、『利休百会記』としてその記録が伝わるおよそ百会の茶会を開きました。徳川家康や毛利輝元らの大名衆、堺や博多の豪商、大徳寺の禅僧など、多様な人々が利休の茶会を訪れています。またこの茶会記には、利休七種にもあげられる赤楽茶碗「木守」や、利休愛用の「橋立」の茶壷などの道具を用いた様子、さらには懐石の献立なども記されており、利休晩年の茶の湯をうかがい知ることができます。
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