道安(当時の名「紹安」)筆の書状には、「この花入が唐のものか日本ものか見分けがつかないので、利休様のお目に懸けてもらえないでしょうか。花入の形と様子が一段とよいので、手に入れたいと思っています」と書かれています。そして利休の書状には「花入をよく見ました。唐物です。欲しければ手に入れたらよいでしょう。ただし、高値であれば無用かと存じます」と記されています。
道安は少庵を介して利休に花入の目利きを頼み、利休がその返事を書いた書状です。この時、利休と少庵は一緒か、あるいは近くに暮らしていたのでしょう。利休、少庵、道安の三人の絆がうかがえる書状です。
道安は利休の実子で、堺の利休の屋敷と家業を継承し、豊臣秀吉の茶堂(さどう)もつとめました。少庵は利休の養子で、その没後、京都で千家を再興しました。二人は同年の生まれです。利休が竹の蓋置を切って二人にあげたところ、少庵は節のない(節が上にある)もの、道安は節がある(節がまん中にある)ものを選んだといいます。また「柔」の少庵、「剛」の道安といわれますが、二人は晩年まで親交を持ち、利休の茶の湯を大切に継承しました。少庵の茶は息子の元伯宗旦を介して三千家に、道安の茶はその流れをくむ弟子たちを通じて、公家や武家の茶の湯を中心に受け継がれました。
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