16世紀末、茶の湯は貿易都市堺を中心に大いに流行しました。堺の有力商人たちは、名物とされる茶器を蒐集し、新たなスタイルの茶の湯を楽しんだのです。 その頃、織田信長は将軍足利義昭を京都から追放、室町幕府は崩壊します。信長が天下統一に向けて、その勢力が隆盛をむかえつつあった時代です。その信長は茶の湯の流行に着目し、自身も数寄大名として茶の湯をたしなみました。利休が信長の茶堂となったのがいつの頃か正確なことは分かりませんが、天正元年(1573)頃には信長のもとで仕えていたと思われます。茶の湯を政略的に利用した信長の政治は「御茶湯御政道」ともいわれます。また「名物狩り」による茶器の蒐集に力を入れ、手柄を立てた家臣には恩賞として名物の茶器が与えられました。その結果、名器には一国一城と同等の価値付けがなされたのです。 天正5年、利休の妻宝心妙樹が没します。宗恩が利休の養子となる少庵をつれて利休の後妻となったのはしばらく後のことでした。 天正10年、本能寺の変で信長が没すると、その後天下は豊臣秀吉の手中におさまりました。秀吉の茶堂となった利休は、次第に天下にその名が知られることになります。また同時に秀吉の側近として、政治的にも重要な役割を演じました。この頃の大友宗麟の書状に「内々の儀は宗易、公の儀は宰相存じ候」と見られます。秀吉の私的な窓口は利休、公的な窓口は秀吉の弟である宰相の秀長が承るとあり、利休の権威が秀吉の政権内で絶大なものであったことがうかがえます。この頃、利休は堺から京都に移り、大徳寺門前に屋敷を構え、「不審菴」の茶室を設けました。以後、ここが利休の茶の湯活動の拠点となるのです。
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