千利休は大永2年(1522)、和泉国堺の今市町において、父田中与兵衛、母月岑妙珎との間に生まれます。利休の家は魚問屋を営み、堺でも有力な町衆の一家でした。利休は幼名を与四郎、後に法名宗易、抛筌斎とも称し、晩年には利休の居士号も用います。また「千」の姓は、利休の祖父、田中千阿弥の千の字をとって名乗ったとされています。 天文7年(1538)、利休は17歳の頃に北向道陳について茶を習い始めました。道陳は堺において武野紹鴎と並び称された茶人で、利休は彼から書院の茶を習ったと思われます。その後道陳の紹介で武野紹鴎のもとへ弟子入りするのは、天文9年、利休19歳の頃のことでした。紹鴎は村田珠光によって始められたわび茶をさらに変化させ、草庵の茶の湯を確立します。また禅の要素をとり入れた茶禅一味の思想は、利休をはじめ、当時の茶人達に大きな影響を与えました。 この天文9年には父の田中与兵衛(法名・一忠了専)が亡くなりました。利休はこの年に宗易の道号を用いるようになります。天文13年2月27日に、利休は奈良の松屋久政を堺に招いて茶会を開きますが、これが宗易の名で記録に残る最初の茶会と思われます。 利休には、天文15年、長男の紹安(後の眠翁道安)が誕生しました。また後に利休の養子となる少庵宗淳もこの年に生まれています。利休にはこのほかにも娘たちがあり、それぞれ石橋良叱、万代屋宗安(いずれも堺の町衆)、千紹二(利休の甥)らのもとへ嫁いだと伝えられています。 紹鴎のもとで茶の修行をつんだ利休は、今井宗久、津田宗達ら堺の豪商でもあった当時を代表する茶人らとの交流を深め、茶人としての素養を深めていったのです。
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