【大意】
(露地には)宗易の小さな石鉢を置き、飛石は建仁寺の山石に据えかえました。
前回取り上げた慶安2年(1649)11月10日付の手紙には、宗旦が露地の造作を行なったことも記されています。
宗旦は、露地に利休遺愛の小さな石鉢(手水鉢 ちょうずばち)を置きました。そして、飛石は建仁寺の山石に据えかえたといいます。このあと続けて「三五郎より建仁路次(露地)われ三度行、路次首尾候、可心易候」(三五郎の依頼で建仁寺の露地に三度行き、露地は首尾よくできあがりましたので、安心してください)とあります。数日後の手紙にも、建仁寺の露地の指図をしたと見えますから、この時宗旦は、自分の露地だけでなく、三五郎の建仁寺の露地の造作も行なっていたことがわかります。
宗旦は親しい人から頼まれて、茶室や露地の指図をすることがしばしばありました。