【大意】
道具(茶の湯の名物道具)の由来を知ることは、数奇(寄)には必要ないことである。利休が嫌ったことである。
元伯宗旦が、寛永10年(1633)4月27日付で息子の宗受(江岑宗左)に宛てた手紙に見えることばです。この年の2月、江岑は唐津藩主の寺沢志摩守広高に茶堂として仕官しました。寺沢広高(1564-1633)は利休を直接知る大名で、寺沢丸壺という大名物の唐物茶壺を所持するなど、茶の湯にも深く通じていました。
この手紙は、江岑が寺沢家に仕官するにあたり、茶堂として心得ておくべきことなどを綴っていますが、そのなかには「利休道具事」「上様(徳川将軍家)ニある名物共」「うらく(織田有楽)ノ道具」をはじめ、名物道具の由来や所在について記しています。たとえば、利休道具のうち「円座かたつき、上様ニ今あり」「しりぶくら、三斎ニ今あり」と記していて、利休円座肩衝の茶入は徳川将軍家、利休しりふくらの茶入は細川三斎のもとにあることを伝えています。また、利休が愛した橋立の茶壺は、北国にて焼けたとしています。